元・吉本芸人!?
坪井 社長の和夫さんは元々アパレルで働いていたとお聞きしました。
坂田 そうなんです。2年半ほどアパレルの会社に勤めたあと、25歳の時にここの跡継ぎとして帰ってきました。実は芸人を目指していて、福岡吉本に所属していたこともあったんです。相方の就職が決まったことで、その道を断念したらしいです。
坪井 芸人!? すごく意外でした! それがどうして跡を継ごうと思われたのでしょうか?
坂田 芸人をあきらめた後アパレルを経験して、自分の服飾ブランドを立ち上げたい、それなら実家でと思って決心したそうです。でも、はじめはかなり苦労したと聞いています。反物を洋服に落とし込むこと、規格品に落とし込むことは業界とのパイプと経験がないと難しいことなのです。だから、最初は反物に自らハサミを入れてエプロンからスタートし、少しずつ洋服を増やしていったそうです。それからお洋服の卸しもするようになったり…。これは他の織元ではやってない新しい挑戦だったそうです。
坪井 すごく新しい取り組みだからこそ、苦労も大きかったんですね。
織元の強み
坂田 そうなんです。その苦労は今につながっていて、うちの強みになっています。生地の製造から製品企画まで一貫してできるのも織元だからこそ。すべての工程を自分たちで担うことができるので挑戦がしやすく、柄や色の自由度が高くなります。
坪井 織元さんにしかできないことですね。由加里さんはいつから久留米絣に関わられているのですか?
坂田 社長とは別の会社でしたが、私も元々はアパレルで卸しの仕事をしていました。
坪井 お二人ともアパレルご出身なんですね。ではご結婚されてから絣のお仕事を始められたと。
坂田 そうです。社長とはお見合いで出会って、12年前に嫁いできました。実はそのころ、自分の仕事にちょっと疲れてきたなと感じ始めていて、タイミングが良かったなと思っています。
坪井 タイミングが良かったとは?
ここに来る運命だった!?
坂田 私が元々やっていた仕事は、主に海外の製品を仕入れて卸すバイヤー的なもの。ファッション業界は常にめまぐるしく変わります。新しい素材、新しいデザイン、流行。莫大な量から選んでセレクトして、それをずっと繰り返す。終わりなき戦いみたいに感じていました。 ある程度経験を積んだ時、海外だけでなく日本のモノに携わりたいという思いが膨らんで。それに莫大な量の製品から探すんじゃなくて、1つ何かに特化してその良さを伝えるために、どうものづくりや企画をするか考えるような仕事がしたくなって。そんなタイミングでお見合いの話があったんです。
坪井 そんな偶然があるんですね。扱う商品もお仕事のやり方も、ある意味今とは真逆だったんですね。
坂田 全然違います。それにファッションというジャンルは同じだけど「テキスタイル」は全くの未知の世界。嫁いできてすぐの一年は工場に入り、一から学ばせてもらいました。
坪井 その中で、どんなことを感じられましたか?
奥深いかすりの世界
坂田 久留米絣は知れば知るほど、奥が深いと思いましたね。いまだに色も柄も完全にはコントロールしきれていないところがあります。染める日の気温や湿度によっても微妙に染料の入り方が違って、仕上がりの色合いは異なりますし、あらかじめ染めた糸を織っていくので、模様のかすれ方にもどうしても誤差が生まれます。もどかしさもあってそれが味として魅力になる場合もあるし、ならないこともある。けれどその偶然性が面白いところでもあるし、どこまでこちらの意図を再現できるかの挑戦にも大きなやりがいを感じます。
坪井 知れば知るほど奥が深い世界ですね。私も久留米絣を使うほど好きになっていますし、店頭での接客のなかで、初めて手に取ってくださる方も、リピーターになられる方も多い商品ですね。
坂田 そんなお話が聞けると、本当にうれしいです。織元としていろいろトライしたいと思っていて、そのために若手への技術の伝承・育成や、新しい取り組みの計画も進めているところです。
由加里さんも社長の和生さんも、アパレルの経験を活かしながら、久留米絣の魅力を広めるために日々奮闘されています。
次回は由加里さんたちが計画している新しい取り組みについて伺います。
坂田織物のかすりを身近に感じてもらえる、オリジナルのアイテムの数々。こちらからご覧ください。